三国志人物辞典 平成激士塾 online
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名前がない事件 司馬一族の犯した大罪…。

皇帝を殺害する。

あまりにも不敬すぎて、書けない事件。


司馬一族が三国のうちの魏を我が物にしていった過程で、どうしても触れなければいけない事実がある。それは皇帝の曹髦を殺害した件である。この事件は司馬一族にとって消し去ることのできない大きな過ちである。統一後の晋がいまいち振るわないのもこの事件が遠因かもしれないと推測する。この事件は晋では隠蔽されていたとも聞く。少なくともこの事件は、晋王朝が魏から「禅譲された」という正当性を著しく落とすものであることは確かであろう。このためだろうか、この事件には名前がない。

皇帝を殺害するにいたった経過である。魏の皇帝の曹髦は司馬昭の専横にもはや我慢できなくなり、わずか供回り数百名で実権を取り戻そうと司馬氏討伐を図って「挙兵した」事件である。司馬氏側は対応に苦慮したが、賈充の部下だった成斉いうものが曹髦を殺害してしまう。成斉の一族は皆殺しになったが、そもそも成斉の殺害は賈充の指示だったと言われるので、最大の罪人は、賈充ということになろう。成斉の一族はなんとも哀れである。そして曹髦も哀れである。

われわれの価値観ではよくわからないことだが、当時の中国の価値観では皇帝を殺すということは、そうとうにいけない行為とされていたようだ。それは中国の歴史的背景があるのだろうが、なんにしても皇帝を殺すという行為はある意味当時の価値観を否定するに等しく、司馬氏にとっては大きな痛手だったのだ。

歴史家が遠慮して書かなかったのか、それともたまたまなのだろうか? なんにしても歴史の暗部である。例えば陳寿の三国志にはこの事件は描かれていなかったのではないかと私は記憶している。いろいろな雑誌や本を見るに「浪漫的な反抗事件」という記述があるので、陳寿もこの表現を用いたのかもしれない。少なくとも事件の本質はあくまでも皇帝殺害であり、それを皇帝の浪漫的な反抗事件として記述したのは、歴史家として、表現に困った故の妥協の産物だったに違いない。陳寿も晋に仕えていたので、この事件のことはおおっぴらにかけなかったのであろう。

なんにしても権力者の都合で歴史が不当に脚色される例として注目される。


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