曹操
そうそう 155〜220
1愛すべき英雄 2乱世の姦雄 3中原での戦い 4官渡の戦 5赤壁の戦 6以降曹操コラム

(カンザキ様画の曹操のイラストです。イメージにぴったりです。カンザキ様ありがとうございました。
- 字は孟徳。魏の太祖。武帝。はい国[言焦]県の人。漢の曹参の子孫?
- 祖父曹騰は宦官で中常侍。父曹嵩は夏侯氏の出。
- 曹操は当初後漢に仕える。後漢では少壮官吏として大いに活躍する。黄巾の乱では5000の兵を率い、潁川で黄巾族を鎮圧し名をあげた。その後宮廷で宦官と何進の権力争いが起き、その虚をついて董卓が乗り込んできたときはこれを嫌って曹操は帰郷した。帰郷した曹操は董卓討伐軍を呼びかけた。討伐軍は、曹操ほか袁紹ら多くの群雄で構成された。討伐軍は董卓の長安遷都後は、目的を見失い、戦意はいまいちであった。しかし、曹操は董卓が許せず、洛陽から撤退する董卓軍を追撃した。しすいにて徐栄と戦闘するも敗れた
- 董卓討伐連合軍崩壊後、曹操は[亠兌]州に基盤をおいた。曹操は呂布、劉備、袁術、張繍らと闘い、大局では勝利を収め、次々と勢力を拡大していった。また黄巾の残党の青州兵を吸収し、屯田制度を実施するなど、政治的にも一流であった。また献帝を許に迎えて、大義名分を得たことも大成功であった。その後官渡にて河北で勢力を伸ばしていた袁紹を打ち破り、中原での覇権を打ち立てた。
- しかしその後荊州を鎮圧すべく赤壁にて呉の水軍と対決するも破れた。しかしその後も曹操の圧倒的な戦力は衰えなかった。213年には魏公、216年には魏王と、曹操は確実に頂点に近づきつつあった。あとは皇帝に就くだけとなるも、ついにつくこともなく220年死亡した。
厳格・清廉な官僚時代
事なかれ主義の官僚がおおい後漢のなかで、ひときわ目立つ清廉な官僚として登場する。彼は厳格な官僚で、禁止令に違反する者を厳格に取り締まった。腐敗した世の中にあって、彼の行動は喝采を浴びた。そのころの曹操は優秀な官僚であった。現代風に言えば、優秀な中堅幹部といったところであろう。
エピソード 曹操が北キ尉(首都警備隊長)に任命されたときすぐに作らせたのが十本あまりの五色の棒。禁令に違反する者は、身分が高かろうがこの棒で委細構わずぶちのめしたという。
エピソード 董卓暗殺未遂事件を曹操は起こしている。董卓は曹操を取り立てようとした。しかし曹操は董卓の失敗を見越して、それにはおうじなかったという。
手段を選ばない男
曹操を「(事実上の)皇位簒奪者」として捉え、悪玉である、とするのが三国志演義など従来の物語であった。劉備を善玉とし、曹操を悪役とする構図である。しかしその見方は偏っていると思う。
劉備などが主張する後漢王朝を再興することが、時代の本当の大義だったろうか。
後漢末の中国は相当に荒れていた。ある資料によると、戸籍上三国時代の中国の人口は後漢の最も多いときの10分の1に落ち込んでいた。(もちろん戸籍外の人口もあるからそこまで単純にはいえないが、そもそも人口が減ったのは間違いなかろうし、戸籍が把握できないほど、国家の権力が減少していたのであろう。)まさに民族の一大危機である。
後漢末、皇帝と無気力さと宦官の専横により、中国は困窮の一方であった。加えて黄巾族の反乱である。もはや、内乱状態なのである。そんなとき、優先されるべきは旧体制の回復より、世の中に秩序ある平和をもたらし、人民を富ますことである。
曹操は天下の秩序を回復することを第一義に据えて、それを理念にして行動したのだ。彼の前では後漢復興など馬鹿馬鹿しかったろう。曹操は若いころ、汝南の人物鑑定家、許劭に治世の能臣乱世の奸雄と評された。本質を看破した慧眼といえよう。(曹操はこれを聞いて大笑いしたという)混乱をいち早く収束させるには、曹操のように一種果断な実行力と決断力を兼ね備えたものの活躍でしか無理なのである。
黄巾族の思想は、革新的である。そもそも西暦200年ごろといえば日本はまだ弥生時代である。そんなときにある意味では共産主義的な思想にもとづいて、反乱をおこした中国人民はすごいとおもう。ただその思想内容はいい部分があるにせよ、各地の秩序は大いに乱れてしまったのだ。(しかし黄巾族の主張はある意味で反儒教であった。その点では曹操とにている部分もある)彼にはその無秩序ぶりがいやだったに違いにない。
普通の知識人階級ならばそこで「後漢」(儒教秩序)の復興を考えるのだろうが、曹操は違った。彼はそこにこだわらなかったのである。その原因として一つに、曹操の家柄があった。曹操の祖父は大宦官で政治的には大きな権力をもっていたものの、宦官は所詮宦官であり、その家柄という点では周りに大いに馬鹿にされていた。曹操は自分の家柄に大きなコンプレックスを持っていたのである。たとえば若いころ清廉な官僚として活躍していても、所詮宦官の家柄ということで馬鹿にされていたこともあったに違いない。そんなとき曹操は思ったはずである。家柄がどうした、俺はただ能力があるのに、家柄ごときで馬鹿にしやがって、と。曹操は今に見ておれと思ったに違いない。
彼は自身のコンプレックスをばねにして、いわゆる建前にこだわらない、すぐれた戦略を実施することができたのだ。自身の優れた洞察力をばねにして、驚くほど果断な政策を実施して見せたのだ。このことはたとえばあの司馬懿のつまらなさと比べると、この時代にしてすごく人間的である。私はそんな曹操に惹かれるのである。
曹操は昔は人気はなかった。また中国民衆からの受けもあまりよくなかった。それは曹操があらゆる非情な手段を用いて天下に向かったからであろう。乱世の姦雄、とは私は賢く、実行力もあるけどもどこか狡猾な英雄くらいにとらえている。つまり乱世の姦雄といわれるのは彼にとって本望だろう。曹操の長所は伝統を理解しつつも伝統に逆らえるところである。従来の知識人層、名士層以外からもたくさんの人材を登用している人材登用術、黄巾族を配下にしてしまうその柔軟な戦術、そしてその黄巾族を屯田兵にしてしまう政策、いずれも時代を超越した手腕の持ち主だった。ものすごい長所である。
しかし、長所と短所は表裏一体である。曹操のように長所が並はずれている場合は短所もまた並はずれている。
非常な手段を用いることは、時には必要である。しかし曹操といえども、たまには判断ミスを犯すのか、非常でない際にも非常時の手段をとって大いに彼の名声を落としたことがある。徐州における大虐殺(陶謙に父親を殺されたその報復)などその典型例であろう。そもそも大虐殺は必要なかったのに、彼は私憤でそれを実行してしまった。
また人材登用に関しても彼は乱世の姦雄ぶりを発揮した。曹操は人材登用と起用法に関しては確かに一流であった。曹操は能力主義的な登用に長けていた。彼は有能な人材を見抜くことができたし、使いこなすこともできた。しかし、彼の人づかいは、劉備のような義を元にしてものではなく、あくまでも曹操の覇業に役に立つかが根本にあった。役に立たなければ切り捨てる。気に入らなくなれば切り捨てる。例えば現代でも、大企業から小企業まで不況によるリストラが流行っている。曹操の場合は、そもそも会社経営をうまくしているわけだから、リストラをする正当性はあるわけだが、それにしてもそのリストラ的行いはときに非情であり、彼の人気を大きく落とす原因となっているだろう。
その一例として、荀[或〃]の例がある。荀[或〃]は曹操の覇業に大いに貢献した人物である。許昌に献帝を迎えよ進言したのは荀[或〃]である。また袁紹との官渡の戦いで時期を捉えた適切な進言をしたのも荀[或〃]である。曹操の覇業に大いに貢献したことは間違いない。しかし魏公(王の次に偉い位)になる曹操を荀[或〃]はいさめた。曰く漢王室復興が我々曹操軍の使命ではなかったか、と。確かにそれまでの曹操は内心はともかくとして、表面上は漢王室の守護者として戦っていた。荀[或〃]の言葉は正論である。しかし曹操はその進言があってから荀[或〃]を遠ざけた。暗に自殺を強要したと言われる。いくら意見が合わないからと言っても、長年の功臣にたいしてあまりにも非情な措置と言わざるを得まい。もし劉備が諸葛亮に自殺を強要したら?あり得ない設定ではあるが、劉備の人気はあまりなかったろう。(荀[或〃]の死に関しては異説がある)
曹操の漢王室へのアプローチもある非情であった。曹操の場合、漢王室に対してまったく忠誠心がなかったと思われる。例えば、許昌に献帝を迎えたのはただ大義名分を得るためだったと思われる。彼は漢王室の錦の御旗をおおいに利用した。例えば、袁紹を征伐するという立場に曹操が立てたのも漢王室の守護者だったからだ。袁紹が曹操との決戦をいたずらに急いだのは(曹操に比べ袁紹の兵力は数倍勝っていた。袁紹は決戦を急ぐ必要はなかった)曹操が献帝を擁立し、大義名分を得ていて、そのことを名門で家格が高い袁紹が気に入らなかったからである。
また荀[或〃]のように漢王室の守護者としての曹操に使えるものもおれば、曹操個人に魅力を感じて仕えているものもいたが、なんにしても曹操軍という新興の軍団に人材が集まりやすくなった一つの原因は献帝の守護者だったところにもよると思われる。このように漢王室を利用したことは覇業には確かに極めて有効ではある。しかしその光景は社乗っ取りみたいなものであり、すくなくとも道義的には誉められたものではない。嫌らしい感じがする。もっとも道義にとらわれない、やり手ぶりを発揮しているともいえるのでそれが曹操の魅力といえば魅力なのかもしれないが。
曹操の元にはたくさんの軍師がいたが、どの人物もあまり道義を感じさせない。(荀[或〃]は例外だが、だからこそ彼は死に至ったのである。)例えば郭嘉は、曹操の大のお気に入りだが、郭嘉自身は、同輩にはあまり人間的に好まれていなかったという。程[日立]もかなり狷介な性格だった。賈[言羽]は謀略が趣味のような男だが、やはり道義は感じない。なんにしても劉備と諸葛亮のような、さわやかな主従関係はありえないのである。最晩年の司馬懿にかんしてはいわずもがなである(なんせ簒奪者だから…)
なんにしても、曹操は長所と共に短所も際だつ男である。短所も魅力といえば魅力であるが、それにしても曹操のすさまじさは際だっている。それが乱世の姦雄たる曹操の本質だろう。
曹操は戦闘においていつも優れていたというわけでもない。少なくとも三国志演義などを読んでいると曹操が勝つシーンというのはたいがい印象が薄く印象に残るのはたいてい負ける部分ばかりである。曹操はいつ戦いに勝っていたのだろうか?
言葉遊びのようにも思えるが、曹操は戦わずして勝っているのである。もちろん実際に戦闘を行い勝利をあげた戦いもあった。しかし曹操の本質は戦わずして勝利をあげるところにある。そもそも洋の東西を問わずして戦いに勝つものは、実際の戦い以外にも様々な手を打つものである。例えば関ヶ原の戦いで徳川方が勝ったのは、家康の謀略が勝っていたからであり、小早川の裏切りもその謀略の副産物ということができる。また第二次大戦でミッドウエーの戦いで日本軍が敗れたのは戦闘技術が劣っていたと言うよりは、その周辺の能力すなわち謀略、情報収集能力、兵站力がアメリカ軍よりも劣っていたからである。
曹操の場合は三国時代のアメリカだったのだ。統合作戦本部、が謀略を練るブレーンが荀[或〃]郭嘉らの清流派諸子である。そして情報収集は彼らが的確に行っていたのだろう。曹操は彼らブレーンの意見を統合し、そして実行に移した。それも的確にである。曹操は最終判断を下す才に長けており、それがここの戦闘に負けても戦術的には勝利を挙げる要因なのである。つまりのところ曹操は戦術的に他の群雄に負けたことはほぼ皆無だったのである。戦闘で負けても戦術面ではまったく負けたことはなかったのである。そして戦術は戦闘に勝る。ここの戦闘にいくら勝利をあげたところで、戦術が間違っていればまったく実効的効果がないことは、項羽の例で証明済みである。
三国志のゲームで私が疑問に思うのは兵站のことである。曹操軍の兵站は荀[或〃]らの働きにより保たれていたが、普通の群雄ではそうそう保たれたものでもなかったと思われる。つまり兵站が優れていると言うことは優れた軍団にのみできるのであり、光栄のゲームのように兵糧が無条件で他の戦場に持ち越せるというのは現実離れしている。兵站力をゲームで数字化することは困難だろうが、是非改善してほしいものである。兵糧部隊の警備とか言う問題ではない。もっと大きなことである。
曹操の戦略というのは実にオーソドックスである。基本的に弱いところを攻めてそれを自己の勢力に取り込み、徐々に勢力を拡大していく。強い勢力との争いは避けると言うことである。つまり、勝てるみこみのある戦闘しか行わないとのである。一見例外のように思えるのが官渡の戦いである。少なくとも曹操は袁紹の勢力よりも劣っていた。曹操にとってかならず勝利ができる戦闘ではなかった。しかしそれにしても袁紹との戦いを200年頃まだ回避したのは曹操の戦術眼の確かさを示している。つまり戦闘を曹操が袁紹と対決できる勢力にするまで引き延ばした曹操の戦術勝ちである。ある時期までは曹操は袁紹に相当媚びを売っていた。その割り切りたるや、マキャベリスト曹操の面目躍如である。これは信長がある時期まで武田信玄と友好関係を保っていたことと極めてにている。
曹操はもっぱら黄巾族の残党を平定して、中原を押さえた。つまり曹操は最初は主に黄巾族と戦ったのだ。その典型例が青州黄巾との戦いである。最初は戦闘力の劣る曹操は黄巾に劣勢だったが、戦術面で勝る曹操は最終的に青州黄巾に勝利した。この勝利で曹操軍団に青州兵が加わり、軍団が強化されたのである。
その後群雄との争いで呂布、劉備、袁術との戦いなどがあるが、いずれも他者の利害を巧みに操り、最終的には曹操が勝利をあげている。[亠兌]州を呂布に襲われたときは、荀[或〃]、程[日立]らの働きで持ちこたえることができたし、袁術を巧みに撃破したし、劉備は呂布との間を不仲にすることで退治した。
文章にしてみるといやに簡潔であるが、それは曹操の戦略も簡潔だったからであろう。曹操の軍団はいつも行動が素早い。また戦いもあっさりしている。つまり簡潔だからこそ戦いに勝てたのだ。負け戦の記述が多いのは、負け戦の方が簡潔でないからであろう。もちろん曹操悪玉論で、曹操の悪い面を取り上げようとしているのかもしれないが、と同時に曹操が勝利をあげた中原の戦いは曹操軍団の戦い方が簡潔なので描写がしにくいからではなかろうか。
袁紹との戦いは曹操にとって苦しい戦いだった。少なくとも曹操にとって勝ちが計算できない先の読めない戦いだったに違いない。
袁紹との戦いは曹操側が画策したものではない。しかし袁紹が画策したわけでもない。両者の衝突はいわば宿命的なものであった。戦いは必然だったといえる。曹操にとっても、袁紹にとっても、お互いが目の上のたんこぶだったのだ。
しかし戦いに向けての両者の態度は全く異なっている。曹操は袁紹との戦いに向け周到な謀略を実行し、かつ官渡に拠点を築いた。それに対し袁紹側は曹操対策は皆無であった。
袁紹は驕慢だった。劉備が徐州で曹操に反旗を翻したとき、曹操は都の許都を留守にして劉備を討伐した。これは袁紹勢力との関係を考えると極めて危険だった。しかし袁紹は田豊の進言を聞かず、息子の病気がを理由として出撃しなかったのである。とんでもない怠慢である。乱世に生きる人の行動とは思えない。そもそも戦争など勝てばいいのであって、いくら闇討ちでも、決戦で勝利しようともとにかく勝てばいいのである。袁紹はそのことを完全に忘れていた。袁紹にしてみれば曹操など微弱であり、いつでもうち破れる。だから今は出撃しないぐらいの軽い気持ちでの戦争回避だったのだろう。また曹操は袁紹のそういう甘い性格を見切っていたと言えるだろう。
袁紹の驕慢さは官渡の戦いでも如実に現れている。官渡の戦いは事実上天下分け目の決戦となった。曹操側が能う限り戦闘準備をしたのに対して、袁紹軍には多くの欠点があった。まず第一に袁紹は戦力的には曹操軍より優勢なのに短期決戦にしてしまったこと。こうなった原因は袁紹軍の戦闘準備の不足である。また袁紹のせっかちな性格、曹操軍への侮りもあった。袁紹軍は大軍で総勢12万と言われる。当然後方の兵站の拠点が必要である。しかし袁紹は十分に準備してこなかった。そのため袁紹は兵站面の心配から、兵力面では優勢なのに強引に曹操軍に挑まなくてはならなくなったのである。そのため袁紹軍は不用意なぐらい曹操の築いた拠点に突っかかって戦闘を実施している。これは兵站面から考えると極めて危険である。また用兵面において余裕をなくしてしまった。
逆に曹操の側から評価すると、官渡にかなり以前から一大兵站上の拠点を築いていたことが大きなアドバンテージであった。また事前に戦闘準備を行い、戦術研究も十分にしていたフィールドで決戦できたのも大きなアドバンテージであった。
袁紹は定見なくただ軍を進めただけであり、それはさながら現実無視であった。数を頼みにしていたもののその戦いぶりのでたらめさは目を覆うばかりである。結局のところ短期決戦で一気に決着をはかろうとするからそういうことになったのである。だがそれにしてももう少しやりようがあったのではないかと思ってしまう。なぜ袁紹側が白馬を攻めなければならないのか?その意味は限りなく薄い。別に袁紹ほどの大軍があるならば、田豊の進言にもあるように黎陽で拠点を築いて持久戦に持ち込めばよかったのである。曹操が突っかかってこざるを得ないようにすればよかったのである。そうしていたとすれば袁紹は後詰め決戦ができた。そもそも短期決戦は勢力が微弱なものがとる戦法である。短期決戦といえばかっこよく聞こえるが、基本的に投機性の高いものである。短期で勝負を決しようと言うのだから負けた場合軍隊は総崩れになる。また仮に短期決戦を用いる場合は、兵力は機動性が高く、かつ集中が行われなければならないのだが、それは袁紹軍の場合ない。総帥がでたらめだったし、袁紹には機動と集中の意味を全く分かっていなかった。
200年2月から4月頃まで、白馬で戦闘が行われた。白馬では曹操軍の劉延が約1000騎で守っていた。約2ヶ月、劉延はこれを袁紹軍の猛攻からよく保った。しかし陥落しそうになったので曹操の参謀荀攸が計略を実行した。白馬より南方の渡河点、延津に兵力を集中し、対岸の袁紹を延津の対岸に釘付けにすることによって、隙をついて顔良を奇襲しこれをうち破るというものであった。これはいわゆる後詰めの応用である。奇襲は成功し、白馬で袁紹軍の勇将顔良が関羽によって討ち取られた。袁紹軍は先鋒に兵力を逐次投入し結果各個撃破されたのだ。
顔良惨殺。このことに怒った袁紹はなぜか大軍を延津に渡河させ、(黄河を背にして)背水の陣をひくことになった。韓信の場合は背水の陣を逆手にとって勝利に至った。しかしこれは寡兵で敵をうち破る作戦である。袁紹のような大軍がなぜ寡兵で敵をうち破るときにつかうような投機性の高い戦いを展開する必要があるのだろうか?まったく理解に苦しむ。短期決戦を志向し、かつ背水の陣をひくというのは戦術面での袁紹軍の選択肢を著しく狭めたのであった。また袁紹は戦いの場で感情に流されている。そもそも顔良がうち破られたその怒りにまかせて渡河したとすれば、感情のみで死地に自ら赴くようなものである。
延津を支えきれないと読んだ曹操は果断な撤退を敢行する。袁紹軍全体が兵力を頼みに曹操側につっこんでくる。曹操は機動性のある袁紹軍の文醜隊のみを自軍の陣営中に深く入り込ませ、伏兵にて文醜隊をおそうとした。この作戦も見事に的中し、文醜は乱戦の中で討ち取られた。
袁紹は顔良、文醜という麾下の勇将が討ち取られたことに激高し、一気に曹操軍を攻め立てた。二度の前哨戦は曹操の勝利に終わったが、それでもまだ袁紹軍の方が兵力的には圧倒的に優勢だった。袁紹はしばらく戦を優勢に進める。袁紹も官渡付近ではさすがに手堅い戦術を採った。曹操に対してじわじわ押し立てていくという正攻法で、このとき曹操軍は負傷者が続出、曹操は官渡に籠城することとなった。袁紹は大軍で一気に官渡にこもる曹操軍をうち破ろうとした。そのとき袁紹は官渡を落とす、という局地戦的視点では持久戦を覚悟したのだという。(もちろん大局的には短期決戦を志向している。この時期袁紹の参謀沮授は袁紹に敵の消耗を強いる恒久的持久戦を主張したが、袁紹はそれを却下している)
袁紹側では許都急襲策が(官渡を攻め立てているときに)提案された。しかし袁紹はこれを却下した。理由は不明である。袁紹の大局観のなさが原因であろう。そもそも今回の官渡の戦の目的が献帝奪還なのか、それとも曹操軍と決戦するのかその優先順位が全く明らかでなく、袁紹は決断を下せなかったのである。曹操側は許都をおそわれていたら危なかっただろうと思われる。また袁紹は許都強襲はしなかったが、代わりに劉備を派遣し、曹操軍後方攪乱作戦を実施したものの、そもそも劉備の兵力が微弱であった。また大軍が分散するのも問題だが、官渡に釘付けになっているのも軍隊の機動という観点から見て大いに疑問である。
一方曹操も官渡の籠城戦では相当弱気になっていた。一時官渡からの退却を考えたという。しかし曹操側の参謀荀[或〃]が曹操を励ました。官渡で戦わないでどこで戦うのか、と。曹操は結局官渡に居続けた。ひいた方が負けるのは確実だった。
袁紹は官渡を攻めるに当たって、弓を高い櫓から放ったり、例の公孫[王贊]との戦いで用いた地下道作戦で、曹操を苦しめた。しかし曹操側も発石車や逆地下道作戦を用いて袁紹に対抗した。
戦闘は膠着状態に陥った。もはや200年も10月まで来ていた。こうなってくると、食糧が問題になってくる。
結局のところ兵站面で袁紹軍の無茶ぶりは明らかであった。そもそも10万程度の大軍を越冬させるなどと言うのは無茶であろう。また袁紹軍の兵站はそもそも破綻していた。戦前に戦闘準備を行っていなかったからである。袁紹の本拠地から渡河していると言う点から考えて地勢的な不利は明らかである。
最終的には許攸の投降による烏巣の襲撃が曹操軍の勝因である。ただしそこに至るまでの経緯を見ると、曹操軍は勝つための努力をたくさん重ねていたのに対し、袁紹軍はそれが全くない。曹操は機を見るに敏であった。また参謀の意見を的確に採用した。それに比べ袁紹はまったく逆であった。袁紹は現実を見ていなかったと言えるだろう。彼は戦の状況に対応していくという姿勢にかける。ただ闇雲につっこんでいっただけである。さながら猪武者である。
官渡で敗北を喫した袁紹はその後病死した。袁一族はその後袁尚派と袁譚派に分かれた。曹操はその争いに巧みに乗じて袁一族を確実に追い込んだ。冀州を平定後曹操は[業β]城を造営し、根拠地とした。幽州、[千千]州、などを完全に平定したのは207年であった。
いよいよ華北を平定した曹操はいよいよ南方に目を向けた。曹操は当時、華北の混乱を避けて非常に繁栄していた荊州にねらいを定めた。曹操にしてみれば荊州を平定すればもはや残るは孫呉のみである。天下統一も目前と思ったのであろう。
荊州平定に関しては曹操の思惑通りだったと思われる。曹操が一度南下する姿勢を見せると劉表の跡をついだ劉[王宗]は早々に降伏してしまった。ここに荊州軍は早々に帰順することになった。許都を出発するときは10万程度だったと思われる曹操ぐんだがこの時点で7,8万は増えたのではなかろうか。
劉備を曹操は追撃しているが当時の劉備の勢力は話にならないほど微力である。曹操は当時の荊州の物資の集積地江陵に劉備が入るのを阻止しただけで、真剣に追撃しているようには思えない。なんにしても孫呉を打ち破ればそれで事実上天下は統一と思っていた節がある。また孫呉も荊州軍のように容易く降伏すると見ていたのではあるまいか。
曹操が孫呉をターゲットとして考えれば、荊州から攻め入る以外にも合肥から柴桑を目指すコース、あるいは信陽から江夏を目指すコースも考えられた。しかし曹操は江陵から柴桑を目指すコースを取った。このルート選定は大軍の運用を考慮しているのである。すなわちほかのコースでは大軍の運用は難しかったということであろう。逆にいえば、曹操にしてみれば一番遠回りでも用兵上一番やりやすいコースをとったわけであり、この点では間違ってはいない。
しかし大局的戦略はそんなに間違ってはいないが、局地的戦術で大きな過ちがあった。まず曹操は水軍の運用に関しては素人同然だったこと。そのため帰順して間の無い荊州水軍を有効に活用できなかった。それに曹操軍(元々の軍)は水上戦闘ではまったく素人同然であり、水上の風土にも慣れていなかったこと。そのため曹操軍内で疫病が発生したこと。この二つの要因から曹操軍はほとんど戦闘能力を喪失していた。
曹操はさすがに袁紹とは異なり、数を頼みに強引な決戦を挑むようなことはしていない。この点誤解があるようだが赤壁はあくまでも呉が決戦を仕掛けたのである。曹操は水軍で要塞を築き徐々に呉を圧迫していく戦略をとろうとしていたのである。よく演義などで[广龍]統の火計の為の戦術とされる連環の計であるが、あれは別に計略でもなんでもなく、曹操が水上要塞を築くために船をつなげたに過ぎないはずである。しかし先にも述べたように水上においては、戦闘技術が曹操軍には無かったのであった。そのため鎖のつなぎ方が実践的でなかった可能性は大いにある。そんな原因もあって呉軍の挑んだ決戦に曹操軍は容易に敗れてしまったのである。
また周瑜の用兵は見事だったといえるだろう。少なくとも水上戦闘においては周瑜の用兵が曹操を完全に上回っていた。また呉軍は周辺地理を把握しており、いわゆる「東南の風」が例外的に発生することも当初から見抜いていたと思われる。東南の風が偶然に吹いたからそのときに決戦を呉が挑んだというよりは当初から呉は東南の風が吹く日を決戦決行日と定めていたのではなかろうか。また黄蓋の苦肉の計も見事であった。
曹操は官渡ではすばらしい指揮振りを見せたが、赤壁ではとりたててよい指揮振りを見せたとはいえない。それは華北と華南の違いといえるであろう。水上の戦いというのは陸上とは勝手が違うからである。また袁紹や袁術、劉表などと異なり、孫呉には優秀な人材がいた。少なくとも赤壁においては孫呉が曹操を上回ったといえるだろう。
曹操とて敗れたとはいえ、致命的な損害はこうむっていない。大きな痛手ではあったろうが曹魏は揺ぎ無かったのである。それは孫呉の戦術的な優位性は所詮長江の上でしか発揮できないからである。依然中原の覇者は曹魏であり、それは結局三国時代になっても変わらなかったのである。赤壁の戦いで曹操は天下統一の意図がとりあえず阻止された。しかし彼はその後も天下統一は狙っていたと思われる。結果的に曹操は天下統一できなかったがそれは赤壁の戦いで敗れたのが原因であるもののそれはその軍勢が敗れて疲弊し統制が取れなかったからというよりは、孫呉、そして後の蜀漢政権が地の利を生かしたそこそこ陣営のそろった政権になってしまったからである。
曹操が天下統一できなかったのは曹操の戦略が誤っていたのではなく、戦闘技術が無かったからである。もちろん孫呉や蜀漢が愚かならば統一できただろうが、孫呉、蜀漢は先の劉[王宗]や袁術、袁紹などよりは愚かでなかったので曹操は統一できなかったのである。
曹操は赤壁以後はもっぱら涼州、益州平定を目指し、そこから天下統一を狙ったと思われるが、劉備が益州を奪ったことによりそのもくろみも実現せずに終わる。(なおその侵攻ルートで晋が天下統一した)
結局曹操は天下統一できなかったがそれはやむをえなかったであろう。また、逆説的であるが、もし曹操が天下統一するということも十分にありえたと私は考える。しかしそうなったとしたら三国志などという書物はそもそも成り立たないわけである。曹操も傑物だったが、孫権や劉備も傑物だったのであり、そうした英雄が同時代に存在したからこそ、三国志は面白いのである。
曹操はビジュアル系だと思いませんか?(ビジュアル系は最近あまり人気がないけど…)
曹操は、詩の達人だったのです。さらに、身長が低かったといわれています。ついでに声も高かったそうです。現代のビジュアル系のボーカリストを思い浮かべて欲しいんですが、身長が高い人はいませんね。声も高い人がほとんどです。
きっと、彼は現代ならば、バンドを率いて活躍していたと思います。
曹操は希望の星だ!!
曹操の敵が、曹操の悪口を言うときに必ず一つ出てくるのが、「家柄が低い(宦官の家柄)ので、卑しい」ってことです。
結局、司馬一族が魏から王朝を簒奪できた要因のひとつに、曹操の家柄が低かったというところもあるくらいなのです。
当時、家柄と実力を兼ね備えた袁紹を破った曹操は相当に魅力的な人物だったのです。たとえば、曹操の覇業に尽力した荀[或〃]は最初は袁紹に仕えていました。今でいえば、国家公務員や、東京電力に荀[或〃]は就職していたわけです。荀[或〃]はそこをやめてまで曹操の元にみな走った訳です。よくこのエピソードでは荀[或〃]の先を読む目ばかりが賞賛されがちですが、むしろ有能な人材が福利厚生面では明らかによくない曹操の元に集まってきているという点をもっと評価するべきでしょう。つまり、曹操には、福利厚生の劣勢を覆すほどの魅力があったということなのです。
しかも曹操は容姿もそんなによくないというハンディを抱えていましたから、よっぽど話がうまいなり、説得がうまいなりのスキルがあったのでしょう。
これは、閉塞した現代日本に希望を与える話だと思いませんか?彼は、被差別者の星です。学歴がなくても、志をもって突っ走れば、人が集まってくる…。そんなすばらしい希望を曹操は我々に与えてくれます。
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